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東京地方裁判所 平成4年(ワ)3517号 判決

主文

一  被告は、原告近藤光賢及び同近藤雅美それぞれに対し、各金一一〇万円及びこれに対する平成二年一月五日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その一を被告の負担とし、その余は原告らの負担とする。

四  この判決は、原告らの勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

理由

一  請求原因1の事実(当事者)は当事者間に争いがない。

二  請求原因2(診療の経過)について

当事者間に争いのない事実及び《証拠略》を総合すれば以下の事実経過が認められる。

1  定子は、昭和六三年五月三一日、胃に痛みがあつたため、姉の中村歌子の紹介で被告医院を訪れ、初めて被告の診察を受けた。被告は、直ちに必要な消化器系諸検査を行い、上部消化管内視鏡によつて胃小彎側前庭付近に腫瘍を発見し(粘膜の淵が堤防状に隆起せず組織が崩壊しており、潰瘍面に幾つかの出血があつた。)、ボールマン{3}型進行胃癌(通常いう末期癌に相当)であると診断した。被告は、定子が直ちに入院して手術をする必要があり、手術すれば延命の可能性があると考えたが、既に転移している可能性があるので救命可能かどうかは分からなかつた(被告は、昭和四七年一〇月に定子の父中村周作を診察したことがあり、定子の胃癌は右中村周作と同じ部位に同程度のボールマン{3}型進行胃癌であつたこと、中村周作の場合直ちに一緒にきていた三女の中村歌子に診断結果を告げ、入院、手術を勧めた結果、千葉県我孫子市の中央病院に入院して手術を受けたが、退院することなくそのまま死亡した経緯があることから、定子も父親と同様の経過をたどる可能性が強く、救命の可能性はほとんどないと考えていた。)。

被告は、被告医院には入院及び手術の施設はなく、また、被告自身は内科医であつて外科的手術を行わないことから、他の適当な病院に定子を入院させる必要があると考え、定子に対して、「胃の出口にかなり大きな潰瘍があり、薬より手術したほうが早く治るから」といつて四ツ谷駅前の胃腸病院に入院して手術を受けることを勧めた。しかし、定子は怪訝な顔をし、診察を受けた次の日から症状が回復したとして、被告の入院、手術の勧めに応じなかつた。

2  被告の説得に定子が応じないため、家族による説得を期待して、被告は、まず、定子に家族について聞くと、夫の原告光賢と二人で暮らしており、同原告は心臓病(狭心症か心筋梗塞)を患つていて入院や退院を繰り返しているとのことであつた。そのため、同原告への告知は、同原告の健康に悪影響を与えるおそれがあるから、適当でないと判断して、これをとりやめ、中村に事情を聞くこととした。

同年六月二一日、被告は、定子の実弟である中村を被告医院に呼んで、定子が進行性の胃癌であることを告げ、定子の家族について尋ねた(この事実は当事者間に争いがない)。中村は、定子が夫の原告光賢と二人で暮らしていること、原告光賢は心臓病を患つていていつも薬を持つている状態であること、ひとり娘である原告雅美が養子と近所に住んでいることを答えた。

その二、三日後、中村は再び被告医院を訪れ、原告らに定子の癌の告知をしてほしいと依頼した。これに対し被告は、三か月以内に定子が入院して手術を受けるように手配をするから、定子が癌であることは本人と家族に絶対に言わないように口止めし、定子が入院するように被告が話をしていくと説明した。

3  その後、被告は、定子が月に二、三回通院してくる際に、入院をして手術を受けるよう再三勧めたが、定子は自覚症状がないため、絶対に手術は受けないとあくまでも入院、手術を拒否した。定子が入院を拒否するので被告は胃腸病院への紹介状を書くことができなかつた。

被告は、家族へ連絡しようと定子に家族のことを尋ねたが、定子は、娘のことに触れなかつた。そこで、被告は中村から聞いていた娘である原告雅美の連絡先を尋ねたが、定子は教えることを拒否した。

4  そのため、被告は、副作用に注意して、抗癌剤を随時使用し、癌の進行を阻止すべく治療した。

その結果、定子の経過は良く、通常なら胃の幽門部が腫瘍によつて閉塞され、食事が通らなくなつたり、腹部内に転移して衰弱し、急激に病状が悪化するところ、初診から約半年後の昭和六三年一二月二三日に行つた二度目の内視鏡検査、血液検査等の諸検査によつても、胃癌の進行は認められなかつた。

5  定子は、自覚症状がなかつたため、平成元年五月に京都、一一月上旬に奈良に姉妹と共に旅行するような状態であつた。

ところが、同年一一月一九日、定子は、原告光賢と山梨の石和温泉に旅行中、胃の変調を訴え、同月二一日、被告医院に来院し、診察を受けた。この際に行われた第三回目の諸検査の結果、癌の浸潤が広く及び(内視鏡検査によると潰瘍面が広がつて周囲の隆起が全くなく、癌浸潤のびらんが広範囲に広がり、出血面も広がつていた。)、幽門部がかなり閉鎖されている状態で、癌が進行していた。 この際、被告は、定子に同道してきた原告光賢に初めて会つて、同原告に対し、定子の診断結果として「胃下垂のようだ。入院手続を執る」といい、原告光賢に心臓病の具合を尋ねたところ、原告光賢は入退院を繰り返しているようなことをいつた。

6  その後も、定子が何度か通院してくる際に、被告は定子に対し入院を勧めたが、定子は入院して手術されるのは嫌だと最後まで拒否していた。定子は自宅で療養していたが、比較的調子がよく、同年一一月二九日には定子が被告医院に最後の来院をした。

7  同年一二月五日、原告らが、定子を植竹病院に入院させ、翌六日、植竹院長が、レントゲン検査をした結果、中村に対し、定子の十二指腸に癌ができていて手遅れである、一年以上前に手術していれば命は助かつたのではないかと説明した。

8  平成二年一月五日、定子は、胃癌が肝臓に転移し、血小板減少症により死亡した。

三  そこで、請求原因3(被告の責任)について検討する。

医師が患者ないしその家族、近親者等に対して病名、病状等を告知し、治療方法、治療効果等について説明すべき診療契約上ないし法律上の義務を負うか否か、負うとした場合の、その方法、時期、内容等については、個々の事例ごとに与えられた諸条件の下で具体的かつ慎重に検討すべきであり、一般的にこれを論ずることは必ずしも適当ではない。以下、本件事案に即して検討することとする。

1  患者本人に対する告知義務の有無

患者に対する医師の診療契約上の義務の観点から検討すると、右義務には、適切な治療を自ら行うことはもちろん、自らそれを行い得ない場合には、適切な治療を受けさせるために転院等の措置を執るべきこと、また、そのため患者自身の行為や決断を必要とする場合には、患者が適切に判断し得るように、患者に病状等を説明すべきこと、何らかの事情で、患者本人に対する病状等の告知が適当でない場合には、その家族等の近親者に病状等を説明し、その協力の下に患者が適切な治療を受けることが可能となるような措置を執るべきことが含まれるものと解される。

本件においては、被告は内科医であり、被告の医院には外科手術の施設がなかつたところ、定子の進行性癌の治療としては、発見後できるだけ早く胃切除等の手術を行うべきであり、そうすれば救命はともかく延命の可能性はあつた(もつとも、手術によりかえつて死期を早めることもあるが、本件ではその危険があつてもなお、延命のために早期に手術をすべきであつたことは、被告自身の供述するところである。)というのであるから、被告は、定子を外科手術の可能な他の病院等に入院させるために必要な措置を執る診療契約上の義務を負つていたというべきである。

この点について、まず、被告は、定子に対して、かなり大きな胃潰瘍にり患しているから、胃腸病院に入院して手術を受けるよう繰り返し勧めたが、定子がこれを受け付けなかつたというのである。本件においては、入院、手術は、定子自身がこれに協力しない以上、行い得ないことは明らかであるから、これらが結果として行われなかつたこと自体を、被告の診療契約上の義務違反ということはできない。

もつとも、被告の定子の説得方法が適切であつたか否か、とりわけ、定子に対して真実の病名を告知せず、かえつて虚偽の病名を告知したことの妥当性が問題となる(なお、被告本人尋問の結果中には、定子が被告の言動や父親の死亡時の状況等から、胃癌にり患していることを察知しつつ、手術を拒み続けたかのごとき部分があるが、そう断定するには根拠が乏しいといわざるを得ない。)、しかし、もはや延命しか期待し得ない進行性の癌にり患した患者に、手術等の決断を促すためとはいえ、真実の病名・病状を告知すべきか否かについては、極めて慎重な考慮を要する。すなわち、告知により、患者が事態の深刻さを理解し、手術等の重要性を認識して、適切な医療活動に積極的に協力したり、残された時間を有意義に過ごすための努力をするようになるということもあり得るが、多くの場合には、患者が精神的に大きな打撃を受けることにより、かえつて適切な医療活動を妨げる結果を招来し、死期を早めることにも繋がりかねないことが予想されるところである。したがつて、患者本人に病名等を告知すべきかどうかは、病状それ自体の重篤さのほか、患者本人の希望、その人格、家庭環境、医師と患者の信頼関係、医療機関の人的・物的設備等を考慮して、慎重に判断すべき事柄であつて、その判断は、第一次的には、治療に当たる医師の合理的裁量によるべきものと解される。もつとも、この判断は、患者本人に残された生活を根底から左右することになるものであるから、医師の独断によるべきものではなく、患者本人の意志やその家族等の意見を斟酌してされなければならないものというべきである。

本件においては、被告が定子の家族等の意見を聴いてこれを斟酌した事実はない点に問題があるものの、定子の父親が定子とほとんど同様の進行性胃癌により手術後退院することなく死亡したことを定子が知つていたこと、定子は夫である原告光賢と二人暮らしで、同原告は心臓病の治療を受けていたこと等を考慮すると、被告が定子本人に真実の病名等を告知しなかつたことは相当であり、この点において診療契約上の義務違反があつたものとはいえない。そして、定子に真実の病名等を告知し得ない以上、胃潰瘍という偽りの病名を用いて手術を勧めたことも許容されるものであり、胃潰瘍も生命に危険がある病気であつて、医師が繰り返し手術を勧めれば、多くの者はこれに従うことが期待されると考えられるから、被告の定子に対する手術の勧め方は相当であつたというべきである。

2  近親者に対する告知義務の有無

次に、被告が原告らにも病名等を告知しなかつたことが、問題となる。近親者に対する告知は、それ自体が医療活動を妨げるものではないから、もはや延命しか期待し得ない進行性癌患者本人に病名等を告知しない場合には、それを妨げる特段の事情のない限り、家族その他の近親者には告知して、患者が適切な治療を受けることができるように協力を求めることが、医師に対する有益な情報の提供という観点からも、患者本人に適切な決断を促すという観点からも、要請されるものと解すべきである。

この点について、本件では、被告は、定子の夫であり唯一の同居の家族である原告光賢が心臓病で入退院を繰り返していると定子から聞いたため、定子の病名等を同原告に告知することは、同原告の健康に悪影響を与えるおそれがあると考えて、これを行わなかつたというものである。被告が同原告の病気について定子及び中村から聞いたこと以上に調査を行わず、同原告本人に面接して確認することもしなかつたことは、やや慎重さに欠けるきらいがあるというべきであるが、妻である定子が同原告が入退院を繰り返すほどの心臓病患者であると告げた以上、その事実のみでも告知は適当でないと判断したことに誤りがあるとまではいえず、結局、前記の告知を妨げる特段の事情があるということができるから、被告が原告光賢に定子の病名等を告知しなかつたことも、診療契約上の義務違反とはいえない。

患者本人及びその配偶者で唯一の同居家族に告知しない以上、本件においては、次に、患者の近親者とりわけ親ないし子に対する告知が問題となる。この点について、被告は、定子の唯一の実の子であり、その夫が定子の養子でもある原告雅美に対する告知を試みるべく、定子に連絡先を尋ねたが、定子がこれを拒否したため、断念したというのである。しかし、被告は、中村に面接して家族のことを聞いているのであるから、同原告の住所等を聞き出すことは十分可能であつたと考えられ(中村が一切知らない旨答えたとする被告の供述は、証人中村の証言に照らして、たやすく信用することができない。)、同原告に対する告知を安易に断念したことは妥当とはいえない。もつとも、被告は、定子の弟である中村には定子の病名等を告知しているから、中村に対する告知が前述のような意味で医師に求められる近親者に対する告知義務の履行に当たらないかも問題となり得る。しかし、被告は、中村からは定子の家族関係を聞き出したにとどまり、中村に定子の説得を依頼するでもなく、また、原告らに伝達を依頼するでもなく、むしろ、本人と家族に絶対に言わないように口止めしたというのであるから、中村に対する告知が右の告知義務の履行に当たるものとは到底いえないことが明らかである。なお、被告は、いずれ近いうちに定子の家族ないし近親者が被告医院を訪れるはずだと考えていたため、それ以上積極的には近親者との連絡を試みなかつた旨供述している。しかし、家族等が被告医院を訪れる蓋然性はあるとしても、その保証がないことは明らかであるし、具体的にみても、定子が入院等を拒んでいることからすると、家族等に被告から入院等を勧められたことを知らせないことも十分予想されるうえ、初診後は定子の自覚症状が軽快していたのであるから、家族が心配して医師を尋ねるはずであるとの判断は、安易なものというほかはない。また、仮に被告の手法を是とするとしても、漫然とそれを待つのみで、それまでに入院、手術をすべきだと自ら判断していた三か月の期間を過ぎてもなお家族が訪れなかつた以上、積極的に近親者との連絡をとるようにすべき義務があるというほかはない(その手段がなかつたとはいえないことは、既に判示したとおりである。)。

以上によれば、被告は、定子の近親者への病名等の告知を行う診療契約上の義務を怠つたものというべきである。

3  原告らに対する不法行為の成否

以上に判示したところによれば、定子の延命の可能性を断つたという意味において、医師である被告の患者である定子に対する不法行為も同様に成り立つということができる。しかしながら、患者の配偶者ないし子である原告らに対しても、不法行為が成立するか否かは、別に検討を要する。

この点に関し、原告らは、被告が原告らに定子の病名等を告知しなかつたことは、原告らが定子に対して十分な治療、手術を受けさせ、あるいは家族としての看護ができるようにする機会を奪われたという意味において、原告らに対する不法行為になると主張する。しかし、病名等の告知は、第一次的にはあくまで患者本人に対してされるべきものであり、かつ、それで足りると解され、ただ、患者本人に告知するのが適当でない場合に、本人を保護する必要上、第二次的に家族等に告知する義務を生ずるものというべきであつて、この場合における家族等に対して告知する義務も、家族等に対する義務というよりは、患者本人に対する義務と解するのが適当である。確かに、家族等にも原告らの主張するような利益があることは肯定し得るが、医師がその利益を侵害しないように家族等に対して患者の病名等を告知すべき法的義務を負つているとまでいうこうはできない。したがつて、この点に関する原告の主張は採用し得ない。

4  以上によれば、被告は、定子に対する診療契約上の義務に違反して、定子の病名等を原告雅美に告知することを怠つたというべきであり、これによつて生じた損害の賠償義務を負うものと認められる。

四  因果関係について

前記認定の事実によれば、被告が前記債務を履行しておれば、定子の家族による説得により定子は入院して手術を受ける決意をした相当程度の可能性があり、かつ、それにより、相当程度延命が期待できたものと推認されるから(救命可能性があつたとまでは認められない。)、被告の前記債務不履行と延命利益喪失との間に相当因果関係があると認めることができる。

五  損害について

1  前記認定のとおり、被告の債務不履行により定子の延命可能性がなくなつたことが認められるが、逸失利益は、債務不履行や不法行為がなかつた場合に就労が可能であることを前提として認められるものであるところ、定子は死亡当時六三歳であつて、就労する可能性があつたとは認められない(また、原告らは、定子が少なくとも五年間は生存可能であつたと主張するが、本件訴訟記録上からは、定子がどの程度延命可能であつたのかは定かでない。)。したがつて、逸失利益についての損害は認められない。

2  定子が被告の前記告知義務違反により延命の可能性を断たれたことによる精神的苦痛の慰謝料は、前記認定のとおり被告も定子の延命のため医師として努力をしたこと、定子の死亡当時の年齢等一切の事情を考慮すると、金二〇〇万円と認めるのが相当である。

3  定子の相続人である原告らが原告ら訴訟代理人に本件訴訟の委任をしたことは当裁判所に顕著な事実であり、本件事案の性質、審理の経過その他を総合して考慮すると、損害の一割に当たる金二〇万円の弁護士費用を被告の前記義務違反と相当因果関係ある損害と認めることができる。

四  《証拠略》によれば、原告光賢が定子の夫であること、原告雅美が定子の長女であることを認めることができるから、定子の右損害賠償請求権を各二分の一ずつ相続したことが認められる。

六  よつて、被告は不法行為に基づく損害賠償として、原告光賢及び同雅美それぞれに対して各金一一〇万円及びこれに対する定子が死亡した日である平成二年一月五日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払義務があり、原告らの本訴請求は右の限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大橋寛明 裁判官 田中俊次 裁判官 佐藤哲治)

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